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神社・お寺・郷土芸能のメッカ

徳山

とくやま

山ではお2人の方にお話を伺いました。

 

まずは散歩の途中に出会ったおばあちゃん。昔のお話を聞くと、まず一番に話してくれたのが、「昔は何をするにも時間がかかった」というお話でした。

 

 

 昭和40年ほど。朝は5時ごろから火を焚いてご飯を炊き、お風呂の準備も五右衛門風呂だということで14時くらいから焚き始めます。今みたいなきちんとしたコンロじゃないしお風呂も薪の時代。ご飯だって畑で白菜・大根・お米・麦などを育てて取ってきて食べる自給自足。病院に行くにも車がないから電車で1日がかり。今は本当に便利な時代、と言っており、想像すると、その大変さがすごくよく分かりました。確かにそうだー。

 

 

 

してもう一人はお茶のことでよくお世話になっている鈴木さん。いつもはお茶のことになると楽しそうに子どもみたいにはしゃいでいる姿しか見たことがなかったのですが、今回昔のお話を教えていただき、ものすごく博学なことにびっくりしました(笑)

 

 まず、現在の徳山を歩いていて気になったこと。お茶畑がある所々に、石でできたお墓みたいな小さな石碑があるんですよね。これなんだろう、と思って聞いてみたところ、「お墓だよ」と教えてくれました・・・!!え、お墓を茶畑の中に作っていたの???と聞いてみたところ、「昭和10年代までは皆貧しかったんだよ。それで、お墓を作っておけば、借金で困った人でも土地が取られなくて済んだんだよ」と教えてくれました。なるほど。

 

 

 そして、さっきのおばあちゃんに聞いたお話では、今でこそ茶畑が広がる徳山だけど、昔は田んぼもあったんだよ、と伺いました。それについて聞いてみたところ、田んぼは昔、茶畑の3倍の価値があったんだと教えてくれました。

 

 

 

 た、地図を見ながら、まだ自分も生まれていない昔の話をしてくださいました。あるお宅のHさんは、もともと京都から来た芸人さんだったらしいのです。それで戦乱を逃れてこちらに逃げてきたということ。神楽とかもいろいろ知っていたし、お客さんの祝詞も上げることができたらしい。そうして京都から流れてきた芸人さんがいたから、現在徳山に残っている京風の踊り、「ヒーヤイ」や、愛宕地蔵の見事な京風の天井絵なんかが残っているんじゃないか、というお話をしてくださいました。色々な所で、京都から流れてきた人(それも芸者さんとか、絵の職人さんとか、技術者の人)が多かったんだというお話を聞きます。

 

 確かに梅津神楽もそういう名残が残っているというしなぁ。でもなんで京都の人がここを選んで来て、ここに移り住んだんだろう。ちょっと不思議です。

 

 

 れは昭和10年代までのお話らしいのですが、お正月前の稼ぐ手段として、ミツマタやコウゾウといった木を取ってきて、和紙もすいていたらしいのです!!戦前までは和紙がいいお金になり、それでもち米・ももひき・シャツなどを買ったりしていたらしいです。他にもをやっていたおうちも多かったとか。私が蚕を同期からもらってきたときも、「昔は蚕を飼ってた名残で桑の木があるから、持ってきてあげるよー」と言って、桑を持ってきてくださったおばあちゃんもいました。 

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