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土岐山城の守のお話
山の奥の奥の文沢は、実は徳山地区と山を隔ててお隣同士。そして、無双連山を隔てて小猿郷ともお隣同士なのです。この無双連山、地元の人たちは「本城山」と呼びます。ここには、この辺一帯を治めていた土岐山城の守のお城(本城・殿屋敷・蔵屋敷)があったからです。本城のことを「徳山城」とも呼びます。
この土岐山城の守、住居は徳山の森ん段というところに構えていました。その徳山には、「ときどんの足跡」と呼ばれる足跡があります。ときどんは土岐山城の守の愛称です。これも民話なのですが、南北朝時代の1353年、ときどんは北朝方の今川範氏に攻められ、徳山城が陥落してしまい、無双連山にあったこの城から逃げ出しました。
その時彼は、無双連山から徳山の北側の背戸山に飛び降り、そこから森ん段の井戸のそばにあった大きな石の上に飛び降りたと言われています。この場所に実際に見に行ってみたところ、たしかに井戸と足跡が・・・!!!でも、めちゃくちゃ可愛い小さな足跡でした(笑)歴史の奥深さを感じた1日でした。
ではなぜ、この徳山城、陥落してしまったのでしょうか・・・
ある本によると、
①城が大きすぎたこと
②そのために兵力が分散してしまったこと
③兵の住んでいる所と城が離れすぎていること
④孤立無援(一方通行)になりやすい地形と、兵の防衛が城より遠いところにあったこと
⑤尾根が多い事
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・・・が理由に挙げられており、今川氏に攻められてからわずか15日で陥落してしまったそうです。降参した武士たちは、たちまち攻撃軍の道案内者になったとか。兵士たちは攻撃されたらそのまま殺されてしまうようなイメージがあったので、なんだか意外でした(笑)
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