大井川と林業
川根本町は町全体がユネスコの南アルプスエコパークとして認定されました。その昔、川の奥の南アルプスから切り出された材木は、大井川の川の流れを利用して運ばれていました。道路のなかった時代には、この川を利用して物資の交流も行い、川の魚類も食料となっていました。 近年は電源開発利用が進み、多くのダムができました。
川根本町も重要な大井川を通る交通路。木材は「川狩り」という方法を用いて運ばれていきました。川狩りとは上記に書いたように、切った材木を、そのまま川に流し、川の流れを利用して運ぶことです。携わった人たちはお給金がとてもよかったそうですが、川を相手にするだけに、足を滑らせて材木と一緒に流されてしまったり、材木の下敷きになったり・・・。命を落とすこともある危険な仕事だったようです。
最も古い記録は、日本書紀仁徳天皇の62年。「大樹あり 大井川よりこれを流し、その大十抱え(直径5メートルくらい)本一にして末をもって両となる。時に倭直吾子籠を遣はし船を造らしむ。如かして南海よりこれを運び難波津(大阪)に将来す。以て御船に宛つ」という記録が残っています。
1600年前にも川狩りが行われていたという事実が・・・!!
また、次の記録は慶長19年(1614年)
「駿府城のための材木3万5000本を切り出す」・・・それから1617年には6万5000本、などと記録が続きますが、こうして切り出された材木は、幕府に納められたものはこのうち何割かで、流失・破損等の理由をつけて、材木商が自分の分を作り、莫大な利益を得ていたのでは??と考えられています。
有名なのが千頭の紀伊国屋文左衛門。
岐阜から来た人ですが、この材木の仕事で大儲けをしたというお話が残っています。
そして明治時代になると、民間の会社が川狩りを請け負うようになります。その時でも2件小屋~奥泉まで4か月かかったとか!! 接岨峡の辺りなどはやはり危険個所だったみたい。
また、通船といって、帆掛け船で材木を運ぶことも始まりました。この通船が上がろうとすれば、川狩りの流木に妨げられて船を動かすことができなくなり、川狩りも仕事を辞めるわけにはいかず・・・激突!!というようなこともあったようです。
こうして行われた川狩り・通船でしたが、1931年には大井川鉄道が開通したことにより、だんだん材木を運ぶ手段も、陸送にシフトしていきます。昭和11年、大井川発電所ダムができたことで、川狩りは完全に消滅しました。
それでも林業時代は昭和まで盛んに行われていました。昭和40年半ば~昭和60年頃は、毎日トラックで40~50台は材木を乗せたトラックが走っていたと話して下さった方もありました。