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大谷(大沢・谷畑)

きれいな川・石垣にみとれていたら、元町長さんに会いました\(^o^)/

おおたに( おおさわ・たにはた )

 谷って、町歩きをしようと思わなければ、たぶん普通に車で通りすぎちゃうだけの地区だったと思います。最初は場所も分からずにいて、聞いてみると、「奥泉の橋から、赤い鉄橋までの所」だと教わりました。

 

 早速奥泉駅に車を置いて、行ってみると、びっくり!下の橋の写真は奥泉側から撮ったものですが、橋を渡り切ってから鉄橋までの距離って、本当に短いの!

 

 こんな地区もあるんだな、と思いながら、町歩き開始。

 

 まず、橋から見える川のエメラルド色にびっくり。湖ならまだしも、川でもこんな綺麗な水色ってあるんだな~。

橋を渡ると見えてくるのが大谷の中の谷畑地区。

今では20件ほどのお宅が住んでいるそうです。

いてみると、きれいな石垣、畑に集まっているおばちゃんたちに出会いました。大谷のことを聞いてみようと思ったところ、「うちのお父さんが詳しいよ~」って言われて、おうちにお邪魔することに。なんと、前の本川根町の町長さんをされていた方のお宅でした!!!

 

この地区からは、国会議員の井林さんも出たそうです。もしかして、大谷の人たちって、みんな秀才なの!?

話を伺ったのは、92歳の佐藤さん。とても90歳過ぎているとは思えない、元気な方でした。

 

早速大谷について教えてもらうことに。

 

大谷で起きた大きな事件と言えば、昭和10年。発電所のための資材を運ぶ、井川線を作るために土木工事の人が入ってきたころ、大火災があったそうです。当時は屋根は杉の皮でできており、かやぶき屋根。谷畑の11件すべてのお宅が燃えてしまったのだそう。

 

お正月は蔵や物置には入ってはいけない、という風習があったそうですが、それが仇になって、盗みなどに入った人がいたらしいと言われていますが、今となっては真実は分かりません。 

 

火災はヘタに広がってもいけないので、全部燃えるのを待つ以外になかったそうです。

た、戦争でシベリア抑留をされた話、シベリアから帰ってきたら復興の真っ最中、山仕事、お茶、シイタケの栽培が盛んに行われていたこと、現在橋があるところは吊り橋で、ちょうど橋に変わる途中だったこと、竹をパイプ代わりに水を引いたり、養蚕をして繭を出荷していた時があったこと、大谷の神社として、『三宝神社』という正一位の位が高い神社があること(時間の関係で、そこまで行けませんでした(>_<))などを教えてくれました。

 

 

 

長時代のお話もしてくださいました。

 

本川根町は営林所があり、中電があり、材木関係の仕事があり、給与取りが多く、とても裕福だったらしいです。

町長時代には海洋センターB&Gを持って来たり、文化会館を持って来たり、電話を引いたり。

 

また、現在走っているアプト式鉄道も、技術者がいなかったから、技術がある人を集めたり、スイスに視察に行ったりして作ったものだそうです。

 

山だからこそ都市と同じような生活を目指して工夫してきた、というふうにおっしゃっていました。

 

先代がこんなに頑張っていなかったら、少なくとも今の川根本町の形はなかったのかなぁ、とも考えさせられたお話でした。

 

素敵な出会いに感謝した大谷歩きでしたヽ(^o^)

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